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プログラマもどきが綴る2008思い出



- 序 -

 なんというか。この大恐慌はどうにかならないものだろうか?

不況、不況と言うが、俺はこの10年来好況というやつを体験した記憶がない。

だいいち、自分の就職活動は氷河期のちょうど最後っ屁みたいなときで、

いろいろ調べても、派遣ばっかりな募集状況だった。

それに加えて、ITブームの最後っ屁でもあり、胡散臭い派遣会社にずいぶん悩まされたものだった。



 そんな俺も、どーにか派遣じゃない企業に内定を決めることができたわけだが・・・。



 仕事がきついときもあったが、4年間、けっこう楽しい業務ばかりだった。

いわゆるデスマ的な仕事もあったし、海外の人ともずいぶんやり取り、一緒に仕事をしたりした。

デスマ的な仕事の時は本当にやめようと思った。いや、やめても良かったのかもしれない。

だけど、その次の仕事で俺の人生観を少し変える出来事があった。

これは、その時転職していたら経験できなかったことだろう。だから・・・。





- 1 -

 今やっている仕事は、いわゆる組み込み系と呼ばれるお仕事だ。

世の中には、この地味な仕事によって、たくさんの商品が作られている。

携帯電話、テレビ、冷蔵庫、洗濯機・・・。家電屋に並んでいる製品は、必ずその裏に

技術屋のドラマが隠されている。

 かつて、マイコンブームというものがあった。いま、プログラマをやられている人は

この世代の方も少なくはない。しかし、組み込みプログラマすべてがそのようなマイコン野郎なはずもない。

元営業、元事務なんて方だってたくさんいる。

今の家電業界のプログラムを書いている人は、家電業界のプログラマを何十年って人はほぼいない。

そもそも、8bitなマイコンだった頃なら、何とかなったかも分からないが、

今の32bitマイコン + 超リッチなOSを前に、何も分からない人間がどう立ち向かえばいいのか?

まさにドン・キホーテ。

電気系出身でC言語も良く分からない状態で入社した俺に、デスマは確約されたようなものだった。



 デスマーチ。この言葉が表題になっている本がある。この言葉が表すのは

どうやっても破綻するプロジェクトで働くような人の状況みたいなものだ。



 そんなプログラマ一年目を命からがら終えた俺。

次の仕事では、こんなことにならないよう、開発環境、言語、HW(Hard Ware)の知識をずいぶん勉強した。

結局誰か分担してくれる、んな状況にはならないプロジェクトもあるので、

とにかく、すべて楽にできる方法を模索した。いや、今も模索している。



 そんなとき、ひとつの新しいプロジェクトが始まった。

俺は、3人のグループに割り当てられた。すげぇ上司、韓国人プログラマ、俺。

期間は2ヶ月。内容はデモ用途とはいえそれなりだった。

デスマの後の俺にとって、これは状況が好転したのか、泥沼化したのかわからなかった。。。



- 2 -

 2ちゃんねるの2002年頃を知っている人なら分かると思うが、

2ちゃんでの韓国の評判は悲惨なものだった。W杯。火病。愛国主義。竹島。

それを大学時代読んでいた俺は、一抹の不安をぬぐえないまま新しい

プロジェクトに参加することになった。

 その韓国人はTさんと言った。俺自身韓国人とまともに接するのは初めてだった。

年は3つ上。長髪で、後ろに縛っていた。丸顔で、モンゴル系の目をしていた。

生粋の韓国人だが、日本語はできた。少し怪しい日本語だったが、意思の疎通は問題なかった。



 サムスンのハングルキーボードを使っていた。キーボードオタクな俺はけっこう興味津々だった。

アキバでもハングルキーボードなんてめったに見ることはなかったから。

ハングルキーの配置は、基本英語配列だった(と思う)。日本語配列のキーは打ちづらいと言っていた。

Linux使いで、エディタとファイラがUbuntuのVMWare上のEmacsだった。

今となっていれば、やっていることは理解できるようになったが、はじめ見たとき、

何だこの人・・・と思っていた。

 個人的に、Linuxに対してずいぶん興味があったので、色々聞いた。

とりあえず、Ubuntuからって言われて、VMWare環境を作った。これは後々かなり役に立った。



 仕事のほうは、HWトラブルは俺の方が強かったので、SWをTさんにメインで書いてもらい、

あまりプログラムっていうほどのところじゃない部分を自分が書き、HWデバッグなどを担当することになった。

 VMWareを利用すると、仮想ネットワークと言うものが使えるので、VMWareとWindow側で

UART通信するようなアプリを書いてくれた。この検証アプリにはずいぶん助けてもらった。

ドキュメント類は、めちゃめちゃ書いてくれたが、日本語がかなり怪しかったので結構直していた。



- 3 -

 二人して毎日終電付近までがんばった甲斐あって、予定より10日ほど早くソースは完成した。

デモもまぁ、成功と言っていいだろう。

 前回のデスマな仕事と比較してかなり楽しい仕事だった。

年が近いと言うのもあって、最後の打ち上げでは、新大久保の韓国街にある焼肉屋に

プロジェクトの若手で食べに行った。

 2ヶ月の仕事を終えて、俺は新しいプロジェクトに参加することになった。

 ここには書くことはできないが、個人的に絶対やってみたかったでかい仕事だった。

Tさんとは、また来年の今頃、一緒にやりましょう、とお互いに言っていた。



 半年、俺は必死で働いた。でも、それは、あのC言語も分からなかったデスマな仕事とは違い、

しんどいけど、楽しい仕事だった。



 半年後、入社以来の面子での飲み会の席で、俺はTさんを最近見ていないことをふと口にした。



 てっきり、ほかのビルに異動したと思っていた俺は、何の気なしに

 「今、Tさんはどこいるんですか?」

 などと上司に聞いた。(一緒にやっていた上司ではない)



 「彼、亡くなったよ」



 俺は、耳を疑った。耳を疑うなんて今までの人生であっただろうか?

上司は、周りに聞こえないくらいの声で俺に少しづつ話した。



 その話によると、俺と別れて2〜3ヶ月後、自宅アパートで亡くなっているのが

発見されたらしい。知っている限り仕事でトラブルがあったわけでもなく、事件なのかも

詳しくは教えてもらえなかった。



 俺はショックだった。

いわゆるプログラムマニア的なオーラのあったTさんが、まさか、こんなに早く亡くなるなんて…。

間近で関ってきたので余計にショックは大きかった。来年、一緒にやれると思っていたのに。



- 4 -

 それから数ヶ月後、俺はちょっと暇ができた。

本社に戻って、誰が使うのかわからないがドキュメントなどを書いていた。

そんな中、一人の上司がTさんのプログラムがあるから触ってみる?と言ってきた。



 触らない訳にはいかなかった。そのドキュメントは相変わらずな怪しい日本語だった。

プログラムは日本ではあまりメジャーではないPython(パイソン)で書かれていた。

Tracという、用件管理ソフトや、BittrentなどもPythonで書かれている。



 GUIアプリの作成をフリーソフトのみで簡易に行う場合、wxWidgetsというツールキットを利用すると

けっこう手軽に作成できる。(修正できるだけで…俺は使えないが…)

 このPython言語について、ドキュメントは日本語・英語・韓国語で熱く語られていた。

俺は、こんなツールの存在すら知らなかったので、ちょっと感動した。



 言語的には括弧のないC++見たいなもので、何をやっているのかはなんとなく読めた。

で、怪しい日本語部分を修正していった。

 残されていたドキュメントは読み応えのあるものだった。てか、Python熱すぎ。



- 5 -

 韓国人の方とは何度か仕事をしたが、Tさんみたいなタイプはまだ出会えていない。

これからもそうそう出会えるとも思えない。

 昨今の景気悪化で韓国もかなり危うい情勢になっている。ウォンを看取るスレの盛り上がりは異常だった。

ただ、日本にしても、派遣労働者の10万とも言われる首切りを見る限り、相当危険な状況だ。

 今の状況での日韓友好は不毛な論議かもしれない。俺個人としては、Tさんのような、技術にすさまじく情熱的な

韓国人が増えてくれたらどんなに面白いことかと思う。



 この文章でTさんのご冥福をお祈りしたい。

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